山岸(1998)の『信頼の構造』の第二章に社会学者のLehmannの信頼についての理論が取り上げられましたので、ここで簡単に整理してみます。山岸が言う通り、非常に抽象的で分かりにくくあります。主に西欧の近代発展に基づいた議論なので、「日本」という、啓蒙運動がなかった国では、確信や信頼への意識の形成は以下とは違うはずだと思います。とにかく、頭だいたいです・・・
主なポイントの整理
信用(確信?) – Confidence
世の中(常識)への期待・希望をあらわす(政治家が誠実に民のために働くこと、車が突然に故障しないことなど)。そう信用しない(確信を持たない)と―すなわちいつも最悪条件のみを考えると―人生は進まない。自分が持っている確信がもたらす期待は内心の希望に応えない可能性はなくはないが、人がその確実性に頼る傾向がある。
他の選択肢を考慮しないで(あるいは選択肢がないと思い込んでいて)行動をするのであれば、それは信用(confidence)である
確信の場合、元々期待していた結果が生じない場合、外部の因子を原因にする。
信頼 – Trust
人が認知的に状況とかかわり、リスクがあるということを認識する必要がある。
いくつかの選択肢の中から選んで行動するのであれば、それは信頼である
信頼の場合、期待された結果が生じない場合、内部(自分の選択過程など)の因子を原因にする。したがって、信頼は後悔を導くゆえに、悪結果が後悔を導く可能性がなければ、それは信頼ではない。
歴史的な背景
見慣れ・確信・信頼 – Familiarity, confidence, trust
人が全く知らない環境に置かれたら、最初に行うのは、周りには何が既知の要素なのか何が未知の要素なのかという操作である。時間につれて少しずつ未知を既知に変えさせ、蒸気が冷たい表面に凝縮するように、じょじょと周りの未知が既知に変えていくと、Luhmannが提唱する。段階的にかつて散らされていた凝縮された既知の諸要素が一体化され、一つの一滴の既知の世界に一体化される。その真ん中にその人がいて、自分の一滴から出ない限り、既知の世界に快適に暮らせる。さらに、人間文明には神話(主に宗教として存在するとLuhmannが提唱する)があるが、それに未知の要素を既知の世界に安全に導入する機能があると言っている。すなわち、自分の既知の世界を出ずに未知の世界を安心して経験することが可能になるわけである。そのような既知の世界は、「Life-world」とLehmannが名づける。象徴(神話がこれにあたる)によって未知が、既知の世界を出ずに既知に世界に導入され、「我々は既知の世界を出る必要がなくなって、未知の世界は、我々の動きと一緒に動く水平線のようなものとしての遠い存在でありながら、[神話によって]未知に見慣れることができる。」
象徴(神話・宗教)が、近代(modern times)の招きにつれて、リスクという概念に大きく置き換えられた。すなわち、自然・道徳の秩序から生む期待とは別の結果が出た場合、かつては「神の潜んでいる意志」とか「自然に潜んでいる秘密」などで説明したことを、自分・他者の行動がもたらす結果は相手の能力や意図によって違ってくるという意識に変えたわけである。要するに、the human experienceにはリスクがあることが分かってきた。
要するに、自然の秩序や道徳の秩序(神が定めた規定・秩序)のほかに選択肢および認識がなかった(許されなかった)時代には、信用・確信が多かった。そこで、啓蒙運動が起きて、物事に対する思想が豊富になってきたことによって、「リスク」という概念がもっと多く知られてきて、信用と信頼の区別が成り立ってきた。例えば、山奥の村を想像すれば、わかるであろう。全員がある特定の道徳の秩序にしたがって行動すれば、人を信頼しなくてもいい。その秩序が破壊される可能性はなくはないが、その可能性がまれという事実上、その可能性を考えないようにして、その秩序がもたれることを前提として(信用して)生活を生きていく。それと別の行動・考え方の選択肢がないから、相手が特定の場面でどの行動をとるかということを心配せずに、相手の行動を期待し、その期待とは外れた行為をほとんどしないまま生活が進んでいく。これがLehmannがいうfamiliarityということである。期待できる範囲から外れたことが起きても、その外れは神の隠れた意志という象徴によって補われる。未知の世界が既知の世界に突入しても、その外れを象徴するものがその外れをカバーする。
ところが、現在我々が住んでいる世の中は、ある特定の道徳的秩序という意識がかなり薄くなってきたわけである。Luhmannが語るのは、「印刷機の発明は見慣れた世界を打ち破れた:見慣れは人類全体の特性を象徴するのではなく、文化の特性を象徴する」。それは、なんの道徳的秩序に確信したり、信頼したりすることと、なにが「見慣れ」自体化という要素には個人差または文化差がある。Lehmannが挙げる例は、医者に相談しに行くという決断は避けることのできない医学業界への信用の結果なのか、リスクに基づいた選択なのかは見 方によるのであるという例である。
そして最後に、リスクというのは、Luhmannによれば、昔の神話がリスクに象徴として置き換えられたそうである:
“…just as symbols represent a re-entry of the difference between familiar and unfamiliar into the familiar, so too risk represents a re-entry of the difference between controllable and uncontrollable into the controllable.” p.100
はっきりにはこの概念をつかむことができないが、何となくわかるような気がする。それは、神話という象徴が既知の世界への未知の突入を許すことと同じように、リスクというのは同じように、不確実な結果をもたらす可能性のあることを、確実的な要素で構築されている現実へ入ることを許す機能を持つ・・・かな?
参考文献
- 俊男, 山岸. 信頼の構造―こころと社会の進化ゲーム. 東京大学出版会, 1998.
- N., Luhmann. “Familiarity confidence trust: Problems and alternatives.” (1988).
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